国立駅周辺プラン報告書

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II.国立駅及び国立学園都市に関する調査の報告

1.国立駅及び周辺地区の既存計画・調査による位置づけ

[1]「国立市第三期基本構想・第一次基本計画」/大学通りを景観的に重視

 都市景観の項目では、大学通りを「谷保地区と並び国立の代表的景観」と位置づけ、「総合的に良好な都市景観の形成を図る」とあるが、駅については言及していない。また市街地再整備の項目では国立駅の南口の再整備の推進が謳われている。

[2]「国立市都市景観形成基本計画」(平成8〜9年度)における位置づけ

 駅と大学通りは、[1]独自に発展した個性的景観のシンボル、[2]計画的に作られた景観が魅力、であり、「主要な視点場・優れた景観資源・景観形成のポテンシャルの高い施設」とされている。また、駅は歴史的資源としての保全と地域景観形成への活用、駅前は集い・賑わいの場としての景観づくり、が課題とされている。

■東京都による位置づけ:「新東京百景」昭和58年度:「大学通りと谷保天満宮」が選定。
 「東京都都市景観マスタープラン」平成6年度:国立は「多摩中央ゾーン」。
 「東京都景観条例」平成9年度:東京都の「選定歴史的建造物」107件に国立駅舎は入っていない。

[3]大学通りの景観形成方針の検討経緯

 都市景観形成基本計画では「大学通り地区」が景観形成上特に重要な地区に選ばれている。これを受けて平成9年度、A「大学通り地区」B「大学通り沿道地区/商業業務」C「大学通り沿道地区/学園住宅」に分けて景観形成方針が示された。現在、A、B地区の住民による景観形成協議会準備会が設立に向けて動いている。

[4]国立駅南口地区の再整備計画

 下記の諸計画があるが、南口再整備については現在推進が困難な状況である。清算事業団用地は駐車場、自転車駐車場として活用されている。

「国立駅南口周辺地区再整備調査」平成2年度、「国立駅南口地区街区整備計画」平成3年度
「中央線沿線まちづくり調査」平成5年度、「国立駅南口清算事業団用地検討委員会報告」平成6年度

[5]市民意識調査/駅舎への関心は高い

■「中央線複々線立体化に伴う市民意向など調査」昭和58年度/駅を「将来とも存続させたい」62.5%(622 人)「新たに作った方がよい」15.7%(156人)「どちらでも良い」18.7%(186人)。
■「景観に関する市民の意識・意向調査」平成7年度/美しいまちづくりのために大切にしたい場所として:
 1位「大学通り」4位「国立駅周辺」、国立らしい場所/1位「大学通り」3位「国立駅周辺」。

[6]都市計画的要件:駅前広場から30m範囲が商業地域(600/80)、第二種文教地区、防火地域。
都市計画図

2.国立学園都市の都市計画の特徴について

(1) 近代の田園都市開発と国立学園都市

[1]近代期の東京における郊外住宅地開発

 大正から昭和にかけて、サラリーマン層の増大と関東大震災による人口流出、欧米からの「田園都市思潮」の輸入などを背景として、東京郊外に次々と住宅地が開発された。国立もその一つで、同時期のものには、大正12〜13年の田園調布、成城学園などがある。
 西武創業の祖とされる堤康次郎は、大正7年軽井沢・千ヶ滝別荘地の開発を皮切りに住宅地経営に乗り出し、大正9年に「箱根土地株式会社」を設立、大正11年以降東京郊外の開発を手がけるようになる。国立の開発着手は大正14年で、それ以前には、目白文化村(大正11〜14年)、大泉学園(大正13年)、小平学園都市(大正14年)の開発に着手している。

[2]箱根土地の開発手法の特色

 当時の郊外住宅地を同縮尺で比較すると、箱根土地の開発手法の特色が顕著になる。他の開発主体が起伏の豊かな土地に小規模開発を行うのに対し、箱根土地は平坦な土地に大規模開発を行い碁盤の目の街路を作る。変化に富む景観やまちのまとまりを重視した前者に対し、後者はむしろまちの広がりや明快性を重視している。
 例えば、国立と同時期に建設された田園調布を比較すると、街区の均質度や街路のヒエラルキー設定、駅に要求されるランドマーク性の違いなどが明確になる。
 また、いわゆる「学園都市」同士で比較すると、国立は大学をまちの中心に据えており、他のまちよりも象徴的な扱いをしている点が特徴的である。

※:東急沿線に慶応義塾大学を誘致し形成された川崎市日吉は、鉄道を挟んでまちと大学を配している。このように「学園都市」においては、鉄道などによりまちと大学を一旦区分する手法が一般的である。
開発手法

[3]箱根土地の開発手法の変遷と国立の位置づけ

 箱根土地による各住宅地は、均質な基盤づくりの面で共通しているが、後年になるほど、街路や公園の扱いに工夫が見られるようになり、国立においては、駅や広場、大学通りなどの公共空間に序列をつけて象徴的に扱うなど、手法的に完成されてくる。国立は、我が国に積極的に大規模宅地開発を導入した箱根土地株式会社による、最も完成度の高いまちである、と言うことができる。

[4]海外の田園都市(郊外住宅地)と比較した国立

 日本の郊外開発は、英国のエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市構想」の影響を受けている。彼の構想に基づくレッチワース(英国)と国立を比較すると、自然景観を重視する点、まちの起点に駅を置く点、タウンスクエア(人が集う中心的な広場)を設ける点、などが似ている。一方、平坦な土地に碁盤の目の街路を通す計画は、むしろサンフランシスコやインディアナポリスなど米国の近代都市に酷似している。街路などの作り方や地形との関係からは、国立は、英国田園都市と米国近代都市計画が、国内で融合した、優れた都市計画の事例である、とも言える。

※:E.ハワードは都市と田園の魅力を併せ持つ職住一体のまちを提唱した(小規模で独立生活圏を持つ中世小都市のイメージ)。日本へは1907年内務省地方局有志により「田園都市」という書物で紹介されている。
海外比較

(2) 国立学園都市の都市計画の経緯について

1)「環境」「景観」に配慮して計画された都市(まち)

[1]分譲広告の「謳い文句」に見られる「美観」「景観」

 箱根土地の開発には、市街地にスポットを一つ作り魅力を高めて売り出す手法が良く見られる※。国立の分譲広告を見ると、大学町を取り巻く赤松林の自然景観、南下りの緩斜面(日照通風が良い)、銀杏などの街路樹を配した幹線道路(大学通り)の美観、「大学町らしい気持ちの良い」停車場の外観、などの謳い文句が繰り返し見られる。他のまちの分譲広告と比較しても、国立は景観や環境を大きな売り物としていたことがわかる。なお分譲開始の大正15年の新聞広告では「南向き緩傾斜、冬も暖かい」を気温の比較により繰り返し強調している。

※大泉学園における公園など:藤谷陽悦氏(日本大学助教授)の一連の研究によっても示唆されている。
■「國立の大學町鳥瞰図」大正14年:土佐檜のような赤松林が大学町全体にわたって景致を添え緑にかすんだ 美しい自然の大公園をなしております。/停車場も大学町らしい見るからに気持ちの良い建築で‥(後略)

[2]まちなみへの配慮

 また、住宅についても「トタン屋根やナマコ張りの粗雑なバラックその他街の美観を損ずるが如き建物は一切建築せぬ事」とし、商店は「表通りから二階建てに見えるよう」誘導している。学園都市として工場や風紀を乱す営業の排除に努めると共に、こうしたまちなみ景観への配慮をも見せている※。

※:例えば田園調布の場合は、建物を建てる際に「建物は三階以下とする事」「建物敷地は宅地の五割以内とすること」「建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とする事」などを紳士協定で規制しているが、隣地や道路とのゆとりに関するものが主で、特に景観に言及したものではない。

[3]写真競映会の実施

 国立では分譲前に、大学町の情景を収めた写真を募集する写真競映会を2回開催している(延期の記録もある)。国立まで足を運んでもらうための重要な広報活動であり、箱根土地が「景観」を売り物にして話題づくりを行った事がわかる。

■写真競映は懸賞付きで2月末と3月末締切で募集。2回目には小西写真専門学校長や雑誌『カメラ』の関係者が審査員を務めている(小西六写真専門学校は現東京工芸大学、「カメラ」は大正10年4月〜昭和31年8月まの間に発刊された一般向け写真普及雑誌(発行 アルス出版))。
写真競映会

2)計画の起点・頂点に位置づけられた駅・広場・大学通り

[1]「土地交換契約覚書」に見るまちの構成

 国立の計画は、震災被害を契機に郊外移転を切望した東京商科大学の意向が大きく反映されている。最も早い時期の大学側の意向を知り得る史料として、箱根土地との間に交わされた「土地交換契約覚書」(大正14年)がある。覚書はまず停車場に言及し「外観を考慮して入念に建築」した上で「相当の広場を設け」るよう要求するなど、まちの顔として位置づけている。また街路は広場から商科大学への幅員24間という幹線道路をまず設定し、これを頂点として他の街路を段階的に幅員設定している。このように、停車場、広場、駅前幹線道路、大学がまずまちの基軸に位置づけられている。

■実現した計画は、放射状道路及び幹線道路と直交する道路を6間、その他の街路を3間に縮小している。また放射状道路の向きは、富士見通りは富士山の方角へ向け、旭通りは国分寺崖線の南側に収まるよう若干角度を触れさせたため、幹線道路に対して45度の対称形にはなっていない。

[2]東京商科大学(現一橋大学)との関係

 東京商科大学では、昭和2年の兼松講堂を皮切りにキャンパス内の整備が進められた。兼松講堂は伊東忠太の設計によるもので、アーチ窓を多用したロマネスク様式とされている。
 国立のまちは学園都市として中央に大学を配置しており、大学と駅が向かい合う構成となっている。特に兼松講堂は大きな破風屋根を駅と対面させており、デザイン的にも呼応する様な関係となっている。今回調査においては、伊東忠太の設計に駅舎のデザインが何らかの影響を与えたという史料は得られなかったが(駅舎の竣工は大正15年であるから伊東忠太は駅の姿は見ていた事になる)、国立の開発当初にあたる昭和2年〜5年頃撮影された航空写真を見ると、駅舎と兼松講堂位しか目立つ建物はなく、意図したかどうかは別として、結果的に両者がまちのランドマークとして呼応し合っていた事がわかる。

■伊東忠太がロマネスクを導入した背景としては以下の事が指摘されている。
 ○大学の源流であるボローニャは大学とまちが一体に作られており、ロマネスク様式だった。伊東忠太は、歴史学者として、こうした歴史をひもとき、学園都市につくられる商科大学にロマネスクを導入した。
 ○ロマネスクには色々なものに変化していく前ヨーロッパ、アジア的持ち味があるため、日本に導入した。
 ○当時大学建築の主流だったゴシック建築への反発からロマネスクを導入した。
航空写真

(3) 駅前広場の開発史と国立駅

 国立は、駅・駅前広場・大学通りが一体でまちの段階的構成の頂点に位置づけられている点が特徴である。中でも駅と駅前広場を一体的に整備した例は珍しい。

1)旧東京市内の駅前広場と国立

[1]震災復興後の駅前広場/モデル的役割を担う国立駅

 都内における最初期の駅前広場の事例は東京駅で、皇居との関係や日本の玄関口としての景観に配慮した広場が震災前に整備された。震災後は、大型ターミナル駅の復興事業として上野駅・新宿駅などに広場が整備されたが、これらは人が集う広場というより、交通計画上の意味合いが強かった。また堀端の駅には広場的な空間ができたが、これらは橋詰広場を継承したものだった。そして東京市外に行くと広場という規模形状のものはほとんどなかった。郊外住宅地では田園調布、武蔵常盤駅に広場が設けられたが、国立駅と比較すると小規模で、広場を中心とした景観がダイナミックに計画されていたわけではなかった。国立は駅前広場を有する駅として沿線の駅前空間の先駆的事例であり、他駅のモデルとなった可能性が高い。

■田園調布駅には噴水とベンチが、武蔵常盤駅には庭園式緑地帯が、玉川学園前駅には公園が設けられた。いずれも規模は小さい。国立では3千坪の方形広場として計画されており、コンセプトに明確な違いがある
■昭和9年に新宿駅、昭和11年に大塚・池袋・渋谷駅、昭和14年に駒込・巣鴨・目白・目黒・五反田・大井町・蒲田駅の駅前広場が「駅付近街路」として決定されたが、いずれも交通計画上の駅前広場であった。
他の駅前広場

[2]駅前広場の当初計画/「国立展望台」

 コクド所蔵の史料には、円形広場の当初計画と思われる図が存在する。これによると、広場は地盤面より6尺上げた「展望台」とされ、「国立甼」の刈り込みが三方に計画されていた。広場の中心から大学町を見渡せるような景観づくりが意図されていた事が伺える。但し古写真を見ると、盛土された形跡はなく、実現はしなかったようである。
 実際の円形広場には、鶴やペリカンを飼う水禽舎やベンチが設置された。また駅前に社屋を移した箱根土地からは広場に音楽が流され、駅前に人が集まる雰囲気作りが行われていた。また、戦前から戦中の秋祭りには、広場にお囃子
の舞台が組まれ、駅の方を見て鑑賞したという※。
※:関栄一氏へのヒアリングによる。
駅前展望台

3.国立駅舎建物の特徴について

 国立駅については以下の調査を行った。
1)現況調査:配置、平面、断面、立面など基本図面の作成。小屋裏は未調査。外部視認による構造診断。
2)復原調査:竣工時を示す図としては「東京附近電車駅設計図集 第二集 縮尺二百分の一 工務局建築課」(交通博物館所蔵)、「國分寺立川間駅新設第弐期工事図」(JR八王子支社所蔵)があった。JR八王子支社には昭和戦後期の何度かに渡る改修図面が現存していた。またコクドからは当初計画図と思われる本屋断面詳細図、照明器具配線図、照明器具姿図が提供された。 以上の史料と痕跡から履歴と復原の考察を行った。

(1) 駅舎の沿革

[1]請願駅/民間建設の希少な事例

 国立駅は、東京商科大学との契約に基づき、箱根土地株式会社が建築し鉄道省に寄付した請願駅であった。駅舎は大正14年に鍬入れを行い、翌15年4月に開業している。宅地開発会社による請願駅は、まちのコンセプトが駅に直接反映する点が特徴的である。民間が建設した請願駅の現存例は全国でも数少ない。

[2]駅の役割/国立の広告塔

 開発当初、国立には三角屋根の洋風モデル住宅が数棟建てられた※1。国立駅舎も洋館規模であり、意匠も「赤い三角屋根に白い壁」という典型的洋館のものだった。通常の駅と異なり、国立駅は分譲地の玄関口として「広告塔」やイメージづくりに大きな役割を期待された筈であり、文化的なまち国立をイメージするデザインとして「洋館風」が採用されたものと思われる。竣工後の駅は、分譲広告に写真が大きく掲載された※2。

※1:昭和3年、住宅改善協会主催「住宅建築博覧会」における洋館モデル住宅5棟など。
※2:.国立の骨格道路の形態自体が国立駅舎のデザインモチーフだとする説もある。
開発当初の駅

(2) 駅舎の現況

1)配置

[1]大学通りとの関係/軸線からずらした配置

 駅舎は広場に面し、大学通りの中心線より僅かに東にずれて立地している。駅舎の正面外観が対称形ではないように、わざとシンメトリーを崩したものと思われる。後述するようにこの配置は大学通りからの景観に配慮したものとなっている
 また国立が立川や国分寺に比べ窪地になっていることを活かし、ホームを高くして下に連絡路を置く「地平駅」としている。これにより大学通りから見た時、跨線橋が駅の背後に現れず駅舎が目立つ配置が実現した。
駅舎の位置

[2]意匠を揃えた付属屋

 構内には木造平屋の「倉庫」「便所」がある。これらはいずれも切妻屋根にモルタル壁であり、波形彫刻や銀杏型の窓枠など本屋と共通するモチーフを持つ。付属屋は開業時の古写真でも確認でき、駅舎と同時期の建設だと思われる。このように駅舎関係の建物は意匠の統一が図られていた。
倉庫

2)間取り

[1]「広間」を中心とした当初間取り

 駅舎は間口9間×奥行7間の本屋に4間×2間半の改集札口が接続している。当初間取りは、間口5間×奥行4間半の広間を中心に、西側に出札室、手小荷物扱所、駅長室、保管室、宿直室などの業務部門が置かれていた。広間北東の改札のさらに北側が、東側へ大きく張り出す改集札スペースとなっている。また、これに連絡する形でホームへ至る渡り廊下が設けられていた。広間は腰掛けが置かれるなど、出改札と同時に待合室の機能を持ち、幅2間の両開戸と大壁に囲まれた空間だった。なお基準寸法は尺で計画されている。
間取り

[2]広間→コンコースへ/間取りや機能の変遷

 改修図面から変遷を追う。昭和27年までは窓の部分的な変更程度で大きな変化は見られない。昭和41年にはホームからの連絡階段設置に伴い、広間の正面〜南東の壁・扉を撤去する大幅な変更が見られる。このため広間の「待合室」としての性格は薄れ、増加した乗降客の動線を優先した「コンコース」に変貌している。

[3]現状間取り

 その後、自動改札機の導入と乗降客の増加により、動線処理の必要に迫られ、広間東側の壁を撤去し、コンコースを拡張している。業務部分も大幅に改装され、手荷物扱所、出札室の縮小があり、事務・共用スペースが広がった。
 但し逆に見れば、大きな機能や条件変化があったにも関わらず。駅は基本的な柱配置を変えておらず、外観に大きな影響を与える改装は行われていない。

3)構造

[1]洋風小屋組、大壁構造

 駅舎は木造平屋、大壁構造である。現在は天井が貼られ、軸部の確認は難しいが、「國分寺立川間駅新設第弐期工事図」には「軸立図 1:200」及び「小屋組図1:50」が記載され構造概要がわかる。これによれば、本屋の小屋はキングポストトラスの洋小屋であり、壁軸部は4寸柱の間に3尺間隔で間柱を入れ、木摺を打って大壁としている。なお庇部分は古レールが柱に用いられている。
軸組図

[2]RC布基礎

 基礎については「國分寺立川間駅新設第弐期工事図」所載の「改集札上屋詳細図」で、古レールの柱基部が鉄筋コンクリート(RC)独立基礎とされている。またコクド所蔵の本屋断面詳細図、昭和59年の広間周辺改修図を見ると、柱下にRC布基礎が確認でき、恐らく柱筋に布基礎が回されていると思われる。前出軸立図には筋交いが記載され、基礎と併せ一定の耐震配慮がなされていた事がわかる。

[3]古レールの使用

 本屋前面庇架構材、改集札口上屋構造材などに古レールが使用され、そのウェッブ面に陽刻された標記から、9社16種類のレールが確認されている。八幡製鉄所製造のもの以外は外国製で、カーネギー社(英)はじめイギリス、ドイツ、アメリカ、ベルギーなどが確認されている。これら古レールは当時の鉄道資材の流通状況を示したり、国立駅の建設過程を明らかにする史料として貴重な部材である。

4)意匠

[1]当初外観意匠/装飾的だった当初外観

 古写真などから外観意匠を復原する。創建時は屋根窓が4カ所あり、妻面の両端に角半柱がつけられていた。半円アーチ窓は木製の銀杏型の桟が入れられ、周囲には3段の化粧タイルによる枠が回されていた。広間南、東には壁がまわり、中央に玄関口、左右に上げ下げ窓を配するなど、現在よりも大変装飾的な外観であった。全体としては、英国レッチワースの駅舎に似た住宅風のデザインに、欧米の大規模な駅舎に見られる大きなアーチ窓を配し、まちのコンセプトが良く反映されたデザインであった。なお屋根窓は昭和45年、柱型は昭和27年までに滅失している。

[2]当初内外仕上げ

 昭和41、47年の改修までは広間周囲に壁があり、外壁の腰高1500oまで人造石洗い出し仕上げ(300o、目地幅5)だった。現在南西外壁に一部残存している。
 またコクド所蔵の本屋断面詳細図、照明器具姿図や電気設備図面などによると、本屋は、青磁色タイル貼り腰壁やアーチ窓の出札口など室内造作にも凝っており、照明器具も洋風だった。室内展開図の出現により広間部分の復原の実現性が高まった。なお戦後の改修図面から判明する主な仕上げの変遷は以下の通り。
仕上げ

[3]設計者 河野某

 第16代駅長堀越義克氏の「駅の歴史 国立駅」(昭和47年)によれば、設計者は「箱根土地会社のライト式建築のベテランで河野という人」だという。河野某の履歴は不明だが、住宅を中心とした設計者ではないかと言われている。

5)部材の変遷

[1]当初柱は半数程度

 改修図面から柱や壁の撤去と取替えを整理した。戦後駅舎は度重なる改修を受けており、大幅に部材が取替えられている。柱は現在の65本中、当初材は21本程度にすぎない(推定)。湿気がひどかったためか、駅舎西側や広間周囲の土台は概ね取り替えられ、柱は取替えか根継ぎをされており、壁や建具も大幅な改変をうけており、この部位は間柱なども含めて当初材はほとんどないと思われる。ただし庇架構の柱に用いられた古レール9本は全数当初のものである。

(3) 鉄道駅舎としての特徴

[1]希少な都内大正期の駅舎建築/大屋根切妻屋根の系譜

 国立駅は東京都内に現存する数少ない大正期の駅舎建築である。特に木造の旅客駅に限れば原宿駅(大正13年)などに次いで古い駅となる。
 また戦前の駅舎の意匠の流れには鎌倉駅(大正5年)→小田原駅→原宿駅と続く切妻屋根にハーフティンバー風とする洋風の系譜があると言われている。また小田原駅から派生して琴平駅(大正12年)→国立駅→松山駅(昭和2年)と続く切妻大屋根を正面に向ける意匠の系譜も見られる。国立駅の個性的なデザインもこうした駅のデザイン潮流の中に位置づけられる。なおこれらの駅舎はほとんど現存しない。

[2]デザインが酷似する大泉学園駅

 箱根土地が建設した駅舎としては、大正13年竣工の大泉学園駅の古写真が残存している。三角形の大屋根にアーチ窓をあしらった駅のデザインは国立駅に酷似しているが、一方で、左右対象で柱型が付かず比較的シンプルにつくられており、国立との相違点も目立つ。国立駅は箱根土地が建設した数少ない駅舎建築の現存例としても貴重である。

■古写真は、西武鉄道株式会社「堤康次郎会長の生涯」(昭和48年)による。大泉学園駅は開発地から離れて位置しているため、正面外観の意匠が左右対称のオーソドックスなものになったと思われる。
大泉学園駅

[3]国立駅舎のデザインの伝播

 国立駅舎の左右非対称の正面外観はその後、青梅線「羽村駅」「河辺駅」などに受け継がれる。また千駄ヶ谷駅は国立駅を手本としたとも伝えられる(前出「駅の歴史 国立駅」)。国立駅舎のデザインは、正統派の駅舎デザインを受け継ぎながら、個性的な解釈で他の範となる意匠を完成させているようだ。
デザインの伝播

4.国立駅周辺の景観特性について

(1) 国立駅の可視領域

[1]大学通り車道と駅前広場から正面が見える/赤屋根は線路沿いに遠方から見える

 正面外観は、大学通りの南端からも見え、特に車や自転車で近づくシークエンスとして見えてくる。駅前広場からも見えるが、円形広場の植裁・掲揚塔などが邪魔している。駅のもう一つの特徴である赤い大屋根は、線路沿いの特に西側から良く見える。ホームや入構する電車からは駅背面の屋根などが見える。

(2) 国立駅周辺の景観特性

1)武蔵野の自然景観を読み込んだ原計画(自然軸から読む)

[1]まちの「縁取り緑」となる国分寺崖線斜面林

 国立は武蔵野台地の南端、多摩川の河岸段丘上に計画され、国分寺の崖線と斜面林がまちの北東の境界となる。まち自体は南東へ下る緩斜面上に位置している。

[2]「緑の軸線」となる大学通り

 大学通りの成長した銀杏、桜並木は街路を特徴づけ、強力な「緑の軸線」となっている。一橋大学構内には赤松などの緑地がまとまりとして良く残されている。敷地規模の大きい戸建住宅地にも、赤松など開発当時の原風景が留められている。
地形図

2)原計画の明快な空間構成が駅周辺で大きく変貌(空間軸から読む)

[1]成形街区とヒエラルキーのある明快な街路構成

 成形な東西長方形街区を構成する碁盤の目の街路が基本。基本街区を構成する3間の生活道路、駅前広場から放射状に延び商店が貼り付く6間の環状道路、駅と駅前広場からまっすぐ延びる「表通り」である24間の大学通りで構成されている。

[2]駅前広場は重要な視点場

 大学通りと放射状道路の結節点となる駅前広場は重要な視点場に設定されている。ここからは大学通りが正面に延び、背後にまちのシンボルである駅が望める。また当初45度に延びる計画だった富士見通りは、広場を視点場として富士山を向いたため角度が触れている。放射状道路の延長は駅前の円形広場で交点を結んでおり、放射状道路からは駅が見えない。これは、駅を大学通りと駅前広場からしか見る事のできない象徴的な存在に位置づけているからだと思われる。

[3]駅周辺の統合・高層化が加速し景観的な「谷底」になる駅

 成形均質な街区は南北から突込み道路が入り細分化されている。逆に駅周辺は敷地統合が進み中高層のマンションが点在し始めている。空地も多く特に駅北側は集積しており今後の開発の可能性が高い。中央線の高架化、高架北側及び広場周辺の高層化により、駅と駅前広場は景観的に「谷底」になりつつある。
建物図

3)都市化に伴う人の流れの変化・増大(生活軸から読む)

[1]文教施設と通学路

 一橋大学はじめ多くの文教施設が点在。多くの学生が国立駅を利用しており、大学通りが主要な通学道となっている。学生による自転車利用も多い。

[2]商店街と商圏/歩いて利用する商店街

 富士見通り、旭通りは近隣型商店街。駅前には飲食店、銀行が多く市民・学生が日常的に集まる。大学通りは個性的な店が並ぶが、市外より地元の利用が主だと思われる(立川・国分寺の商業集積が人を集めている)。国立は中央線沿線の商業集積のある駅前と異なり、車ではなく、徒歩か自転車で買い物に来る人が多い。

[3]自動車の流れ/大学通りから駅前広場へ流入する通過交通

 大学通りから駅前広場のロータリーに入る交通量が多い。これは駅北東へ抜ける通過交通が大半で、大学通りから駅を見る主体は、実は圧倒的に学園都市外の人間である。駅前にはバス、タクシーの乗降場が集中し、朝夕通じて渋滞している。

[4]歩行者の流れ/駅利用者の増大

 駅前広場の歩道を通る歩行者数が過剰である。商科大学本科の移転時2千名弱であった乗降客は昭和46年には10万人を超えており、歩道が容量を超えている。なお通勤者は主に朝、通学者は主に夕方駅に向かい正面から見る機会が多い。

[5]「人が集う広場」から「通り過ぎる場」へ/駅前広場

 開発当初の駅前広場は、水禽舎が置かれ、まちの人が溜まり、集う場所だったが、乗降客増加に伴い「通り過ぎる場所」へ性格を変えている。円形広場は立ち入りできなくなり、植裁や工作物で景観的に混乱し、駅を隠している。駅前溜まり空間としてバス停や飲食店などがあるが、駅や広場への視線を配慮してはいない。
流れ図

4)駅舎の景観的役割の変化(歴史軸から読む)

[1]開発当初/斜面林を背景としたランドマーク

 駅周辺に高い建物はなく、国分寺の斜面林が背後に広がっている。駅は広い範囲のランドマークであり、大学通りのアイストップともなっているが、街路樹がまだ幼く、ビスタは強調されていない。駅は緑の中の小住宅の趣がある。

[2]高度経済成長期/ビスタ強化と景観遮断要素の出現

 昭和30年代に入り街路樹が育ちビスタが効き、大学通りのアイストップとしての駅の役割が強化された。一方で駅前広場の植裁が前から駅を隠し、背後の高層マンションがビスタを崩すと共に国分寺の緑を隠している。
大学通り景観の変化

5)地域の景観特性:明快で景観に配慮した原計画→その継承と変質

[1]原計画/武蔵野の自然をうまく読み込んだ明快な景観構造

 国分寺斜面林が縁取り景観となり、まちの骨格は均質な街区と段階的な街路により明快に構成され、特に駅、駅前広場、大学通りが景観的に頂点に位置づけられている。主要な街路、広場は視点場に設定されている。

[2]都市化の流れの中で見え難くなる「原景観」

 乗降客増大と敷地統合・高層化に伴いまちの景観構造が乱れている。縁取り景観は遮断され、均質な街区は細分化され、街路や広場は視点場としての機能が低下し、街路などの構成が必ずしも明快ではなくなっている。この傾向は今後更に加速される可能性が高い。

[3]駅、駅前広場、大学通り/まちの「広場空間」の役割低下

 駅、駅前広場、大学通りは、段階的な街路構成・景観構造の中で最も象徴的な位置づけを持ち、人が集い、まちの骨格を見渡す事ができる視点場を持ち、まちの顔としての駅を正面から望む事ができた。いわば一体でまちの「広場空間」であった。現在では、通過交通が主体となり、視点場機能が低下し、景観的に「谷底」となることでまちの顔(駅)が見えなくなり、こうした機能は低下している。

(3) 国立駅周辺の都市美形成の課題

 以上みてきたことから、国立駅周辺の都市美形成の課題は、駅、駅前広場、大学通りといった、まちの「広場空間」の役割の再評価と強化であることが分かる。さらに各部位ごとに課題を整理すると以下の通りである。

[1]駅前広場/人が集い溜まり交流する場。駅や大学通りの視点場機能を復活。

○円形広場/駅や大学通りを隠さない景観的処理。人が入れる工夫をする。
○歩行者空間/溜まり空間の創出。バス停など既存スペースを視点場として処理。
○車道/通過交通排除の検討。バスタクシー乗降場の位置整理の検討。円形広場へのアクセス確保。
○広場を囲む建物/広場に配慮した高さ、デザイン。広場や駅を見渡す視点場確保。

[2]駅舎/高架化や高層化の波の中で「まちの顔」としての見え方を演出する。

○駅舎/現状の位置で保存する。
○周囲との関係/駅舎の存在感、国立にとっての役割を視覚的に見せる工夫をする。
(例:植裁による背景をつくる、高架駅のデザインを工夫するなど)
○利用者空間/通過するだけではなく溜まることが出来る空間づくり。
(例:乗降客の動線処理、駅の溜まり空間(旧広間)などの復活など)

[3]大学通り/街路樹保全、歩行者や自転車にとって魅力的な空間とし、駅への視点場機能を復活。

○歩行者空間/駅前広場と連結する部分の処理。
(例:放置自転車問題の検討、駅舎を見る視点場として溜まり場創出など)
○自転車道/路面や植裁など魅力的な空間とし利用者を増やす。歩道との関係改善。
○沿道の建物/街路樹景観や歩道に配慮した質の高いデザイン。

■国立駅周辺の景観特性図

(June 12, 2001)


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